備中玉島案内「玉島・良寛会館」・良寛さん・歴史・風景



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[27] 源平水島合戦八百年祭

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年12月11日(月)23時41分5秒 dhcp248-184.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

 源平水島合戦八百年祭
                       仁科恒夫

   「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」有名なこの美文で始
   まる平家物語は、源平興亡の壮大なドラマであり、さまざまな人間模様
   を織りこんだ美しくも悲しい一大叙事詩であります。
    平家物語巻八に出てくる水島合戦については知る人が少なく、郷土の
   人でさえあまり知らないのは甚だ残念なことでした。
    以後八百年、この大ロマンの史跡を顕彰すべく、玉島文化協会の発起
   で玉島地区十団体の協賛を得て、源平水島合戦八百年祭実行委員会を設
   立しました。滝沢倉敷市長、遠藤倉敷市議会議長を始め、多くの市議会
   議員の御協力、市当局より多大の御援助を受け、また玉島地区を中心に
   多数の人々の御協力により、記念碑並びに記念小公園を建設し、十一月
   二十日鎮魂の祭典を盛大に挙行しました。
    幸い好天に恵まれ、滝沢市長を始め多数の御来賓、参加者により記念
   碑の除幕、式典を終わり、つづいて記念行事に移り、源平戦死者鎮魂の
   踊りといわれる白石踊りの披露、小学生の綱引き大会、剣道大会等多彩
   な行事がくりひろげられ、盛会裡に終了しました。
    記念碑及び記念小公園は総工費三百万円で、平家本陣跡といわれる柏
   島の、玉島湾に架かる水玉ハイウエイ玉島大橋(愛称源平大橋)の西詰
   、玉島湾を一望するゆかりの丘に建設しました。三宅金一氏が御提供さ
   れた三十六平方米の土地に、横溝善章先生の御構想により堀芳男氏(松
   楽園)が施行しましたが、記念碑は平家の赤旗にちなみ万成石とし、二
   ・五米の碑の上部には当時の日食を象ってあじ石で黒い太陽をあらわし、
   「源平合戦水島古戦場」と藤田圭園先生が揮毫され、赤沢典雄先生によ
   る水島合戦の概要を銅板に刻み、みかげ石の台座に埋めました。記念碑
   と一体となる記念小公園には乙島・柏島等を模して矢掛石を配しました。
   この記念碑が郷土を語る資料となり、今後観光玉島のシンボルの一つと
   なれば幸いです。
    建設にあたり献身的な御協力をいただいた河野繁利氏を始め、実行委
   員会の皆さま、その他の関係各位に厚くお礼申し上げます。
                    (玉島文化協会会長)
昭和58年(1983)11月

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[26] 県下第二位名勝地

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年12月10日(日)13時18分50秒 dhcp248-184.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

県下第二位名勝地
県下第二位名勝地
 弁天池の傍らにこの碑が建っている。現在の円通寺に係わる大切な記念碑である。
中国民報社の主催で、昭和四年十一月のことである。(『山陽新聞七十五年史』)
 四年九月、中国民報社は後楽園を除く十二勝以下、二百余の遊覧地を投票によって選
んだ。投票は三四四万九千十一票に及んだ。(十一月五日締め切り)
 1.鬼ヶ岳(497,822)  2.円通寺公園(262,060)
 3.阿哲峡(223,565)  4.牛窓公園(216,299)
 5.箆取神社海岸  6.香登臥龍松  7.芳井天神峡  8.西大寺観音院
 9.高松公園  10.酒津水門  11.王子ヶ岳  12.奥津温泉
 昭和四年は、山陽新報社の創立五十周年にあたり、当時は新聞社による各種の催し物
が競争されていたので、中国民報社によるこの催し物もその一つではないかと思われる。
 これが後の「瀬戸内海国立公園」指定(S.9年3月)に繋がるのである。
 ほかに「大典記念岡山県十傑」投票とか「県下一周ボールの旅」なども昭和四年前後
にかけて行われた。
 ついで山陽新報社は「岡山県下十勝十五景」の投票(10年9月~11月6日)を行
い一億二千万票を集めた。一位鹿久居島一千万票であり、なお二十秀を追加した。
 これは山陽新報社が以前企画した「御大典記念岡山県十傑投票」(三年)と同じ形式で
投票をおこなったものである。
 ちなみに「鬼ノ城」は十五景の二位、「円通寺」は十五景の九位に選ばれている。
なお「鬼ノ城」には、「岡山県十五景地」と書かれた銅板が昭和十二年四月が鬼之城優
勝会によって建てられている。

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[24] 昭和7年6月15日に、中国民報(現山陽新聞社)主催で円通寺と良寛を語る有志の座談会

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年11月19日(日)17時14分49秒 dhcp179-128.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

昭和7年6月15日に、中国民報(現山陽新聞社)主催で円通寺と良寛を語る有志の座談会が開かれました。円通寺良寛詩碑をめぐる話や、玉島で良寛さんを認識したことなどに触れています。玉島の良寛さんを研究するには貴重な資料と思います。
長い文章ですが、興味のある方はご覧ください。
円通寺と良寛を語る有志の座談会(一)
           昭和七年月六月十九日(日)
           中国民報(現山陽新聞社)主催
    本社ではこの機会を利用し聖僧良寛和尚の徳風を一般世間に紹介すると共に名勝地円通寺公園を汎く江間に紹介せんため十五日午後四時より円通寺客殿で良寛碑建立に尽力した有志を招いて良寛と円通寺に関する座談会を開いた。
    当日の出席者は左記の諸氏で夜八時まで心ゆくまで良寛と良寛を育て
   あげた揺籃の地とも云うべき円通寺について語った、以下其の記録の要領である。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       出席者
    久我少年氏、中村唯一氏、近江惣右衛門氏(西通町)吉川芳一郎氏、安原嘉蔵氏(栄町)、山本兵一郎氏(醤油 若屋)、小野林太郎氏(久々井)、藤田荒次郎氏、藤原慎一氏(藤井省一 鉄工所?)、柚木玉邨氏、宮地勝二氏、中塚一郎氏、花田一重氏、石井戒全氏、高越沢太郎氏、三宅冨次郎氏(家屋税調査委員)大野友松氏、中野又市郎氏(西町 金物)
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      本社側
    宮岸常務理事、福田、片山、林、藤井各社員
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     ??宮岸常務理事   ここに良寛禅師と円通寺の座談会を開くに当たりまして、柚木、久我両先生に一方ならぬご尽力を願いましたことを厚く御礼申し上げます。この十九日には建碑の除幕式が行はれますので、これを機会に良寛禅師と円通寺との関係を中心としたお話を承りまして、中国民報紙上に紹介したいと思います。殊に去る昭和四年に私の社で主催しました、岡山県下遊覧地の推薦投票に於いて、円通寺公園は十二名勝地中の第二位に推された関係もありますので、円通寺公園をも広く天下に推薦したいと思います、そう云った意味を以て、皆様のお話を聞かせて戴きたいと思います、どうぞ打寛いでお話願います。
  ??福田社員  花田先生、あなたは良寛禅師について非常にご研究が出来てをられますが、良寛が二十年間円通寺で修業したといふ何か記録でもありますればそれによってお話を願いたいと思います。
  花田一重    書いたものと云って別にありません、良寛さんの唯一の女弟子であった貞心尼が書かれたものの中に、玉島の円通寺で修業されたことが書いてあります。もう一つは先年、糸魚川に相馬御風先生達の手で詩碑が建ちました、その碑に、玉島を出て、今糸魚川に着いた、とその時の感じをズツと詩に書いてあります、この二つで円通寺で修業されたことがハッキリ判ります。
   ??福田   二十年間玉島に居られたことはそれで判りますが、その間どういふ生活をして居られたかわかりませんか。
   藤田荒次郎氏   少しは判ります、良寛が二十二歳の時円通寺の国仙和尚が越後に行かれて、法話をされた時その大徳を慕って玉島に来られたのですが、玉島で修業されたのは丁度十七箇年であります、二十年といふのは間違いで大島氏がハッツキリと十七箇年と書いています。其の十七箇年の間に九州から土佐方面に行脚に出ておられたのです。
   石井戒全    二十箇年ではありませんか、相馬御風先生の手書かれたものは十七、八箇年乃至二十箇年となってゐますが・・行脚に出られたりして前後二十箇年はここに居られたものと存じてゐますが・・・
   国仙と仙桂、
¦良寛の印象に残った二人¦
藤田氏     二十二歳で来られて十七箇年をられて三十九歳の時に
越後に帰られた。そして三十五、六歳の時に九州方面に行かれたと大島氏の書物には書いてあります、どんな生活をされたかといふことは何も残ってゐませんから判りませんが、良寛の詩を読んで見ると少しは判ります。即ち「衣類が汚れれば自ら洗濯し、食が尽くれば托鉢して歩いた。然しながら、市街の人は知るものはなかった」とあります。花田先生、良寛と一緒に居られた坊さんでお経も読まず、一日中米ばかりついてゐた仙桂が慕わしいと良寛が詩か歌の中かにかいておられましたが。
   花田氏    仙桂和尚さんは良寛が円通寺で修業中における会下の中の唯一人の心の親友であったようであります。良寛は仙桂和尚のことを
        「仙桂和尚は真の道者である、黙して云わず、強いて参禅せず、別に読経せず、当時自分はこれを見て見ず、これに逢て会わず、円通寺生活を過ごして来たが嗚呼、今これ、習わんとしても習うことが出来ない」と云われてゐます。
      ??福田 それは越後に帰られてからの話ですか
   花田氏 さうです、越後に帰られて円通寺生活を懐古されて最も印象に残ったものが国仙和尚と仙桂和尚だったのです。
      石井氏 仙桂といふ人は当時典座といって賄役をしてゐたらしいです。この典座といふ役は、禅宗ではよほど志しの固い人でないとやれないもので、食事にかれこれと文句をいうものもあるが左様なことに気をとられずどこまでも淡々とした心を持ってゐなければ勤まるものでない。仙桂和尚によって完全に出来得たのであるから立派な人であったと思ひます。それから園頭と言って、菜園に出てから色々なものを作る役、これは典座の下役でありますが仙桂和尚は他人に任して置かず自ら菜園を指揮して作っておられたらしい、かういふ具合であったから良寛とは大いに意気投合せられたのであろうとおもいます。
      藤田氏  玉島に居られた間は仙桂和尚とは逢て会わず、見て見ずといふ態度でしたのですね。

           圓通寺の
              ?隆盛時代?
      中塚一郎氏、  円通寺に一番多く雲水がをった時は何人位いゐたのですか。
      石井氏    五十名を下らず、と書いたものがあります。
      藤田氏    それは国仙和尚の時代ですか。
      石井氏    いつの時代か判りませんが十三代位までは相当盛んでありまして国仙和尚 第十代の時代も相当盛んであったらしい。
      藤田氏    五十名も雲水が居たといふのは矢張り国仙和尚時代ではないでせうか、と申しますのは国仙和尚が大変偉かった、それに加えて当時の玉島はこれ又非常に殷盛を極めてゐたし、当時の人々が非常に信仰心が厚かったのです。
     花田氏   出家の動機については色々と書いたものがありましてかうであると断定したものはありません。
     ??福田   良寛をあのような大きな人間にならせた半分の力だと云われてゐる貞心尼を見染て、そこに人間としての煩悩が起きて来たのでこれを厭うて出家したのではないかといふことを何かで読んだことがありますが、そんなことはありませんか。
     花田氏   それは初耳です、そうしたことがあったかも知れません。
     大野友松  良寛の家は代々名主であったので良寛もこれを受け継いだがその時分には良寛の家は次第に衰へ初めてゐましたし名主役として立って行くには色々と世間の問題を取扱わねばならず、かうしたゴチャゴチャしたことが五月蠅くなって出家したといふことを聞いてゐますが・・・
     石井氏   私、聞きましたのですが、これには二つの動機があるようです、その一つは今大野さんが云われたように良寛さんが名主役を継いで名主を務めてをられたがその時土地の代官と漁師との間に争いが出来た。良寛が調停の地位にありながらも生来正直一方の方ですから漁師の方へ行っては代官が云ってゐたことを全部話してしまふ、又代官の方へ行けば漁師の悪口雑言を残らず話してしまうだから問題は益々葛藤を生じて調停するどころの騒ぎではなく一層紛糾せしめた、そこで上役が良寛を呼び出してお前は馬鹿正直に、こちらで云ったことを残らず向ふへ行って云ふ奴があるかと叱ったのです、ところが良寛は慨然として云ふのに「世の中は正直を以て渡るべきあると思ってゐたのにうそを吐かねばならぬと云ふのならこの役はもう御免だ」と云ひ残してそのまま光照寺に行かれたと云ふ説と、今一つは当時罪人が処刑される時には名主が立会ってゐた、或時重罪人が処刑されるので良寛も役目の手前その現場に立会ったが処刑される有様を見て「人生は実に儚いものである」といふことを深く感ぜられ、家に帰るやいなやいきなり誰にも告げずに光照寺に走って行かれたとも云われてゐます。
    中村唯一氏   名主になられた年に出家されたのですから何か原因がありそうですね。
    ??宮岸   名主の後は誰が継いだのですか。
    花田氏   弟の由之です。
    中村氏   十八才の時に名主見習役となられたのです。
    藤田氏   その時分良寛の家は次第に零落してゐた時ですから名主にはなって見たものの元来が正直一方の人ですから融通が少しも利かない、だから上からも下からも随分虐められたらしいのです。
    ??宮岸   つまり当時の社会生活に負けたのですね。
    大野氏   佛力によるより仕方がなかったのです。
    ??福田   名主見習いの役の間に何か優れた才能を現しはしなかったのですか。
    大野氏   ありますまい、名主の「昼あんど」と云われた位ですから。
    ??宮岸   「昼あんど」は池田光政公にも、大石良雄にも名づけられたあだ名ですから、むしろ人間として大に偉かったのでせうただ当時の世間的、生活に失敗したのでせう(つづく)
            座談会(二)
                (六月二十一日掲載)
         円通寺と良寛
             ?碑の建つまで?
    大野氏   名主の昼あんど、とゐわれる位ボンヤリしてゐた人があのような偉い人間になられたのは円通寺の国仙和尚の薫陶が非常に良かったといふべきです。と申しますのは国仙和尚の時代に他にも偉いお坊さんが出ています。それは後に永平寺の管長となり、国仙和尚の後を追うて円通寺十一代の住職となられた、玄透和尚、それに良寛が慕ってをられた仙桂和尚、それに良寛とふように、偉い人ばかり出ています。越後の出雲崎にばかり良寛が居られたのでは、あのように偉い人物は恐らく出来上がらなかったと思います、国仙和尚の下で修業されたからこそ「昼あんど」が、百万燭光の電灯となられたのです。然しその間には非常に御修行が出来たのでありました。その詩の中にもこんなのがあります。
            憶在円通時、恒嘆吾道孤
            運柴懐?公、踏碓思老蘆
            入室非敢後、朝参常先従
       といふ具合で、非常に勉強もされたし、人一倍努力されてゐたのです。国仙和尚がある時正法眼蔵(道元和尚が曹洞宗を開いた時書いた物)を良寛に見せたところ非常に喜んで常に放さなかったということが良寛全集に出てゐます。又永平寺の古物録を詠んで日夜泣かれたと云ひます、或時その日も古物録を詠んでないてをられたところ書物がビショ濡れになってゐた、傍らの人がそれを見てどうしてその本は濡れてゐるのかと聞いたところ「雨が漏ったものだから」と云われたことが詩に出てゐます、こういふ具合に円通寺時代非常に勉強されたものです。
   中村氏     あの童心を生涯もち続けられてゐたところが偉いと思ひます、我々は良寛の逸話によって名聞や利益のために失ってゐた心の故郷に帰ったような気が致します。
   藤原氏     大愚でなければ考えることの出来ぬものがありますね。
   中村氏     我々が慕うのは良寛さんが坊さんとして偉かったといふことでなくて童心を生涯持ち続けられたことにあるのです。
   ??宮岸      良寛の心境の変化といふことは考えられませんか、神道の家に生まれた人が禅宗の寺に出家して修行し最後は真宗の寺で念仏を唱えたと云われてゐますから。
   石井氏     念仏を唱へられたのではありません、その時の境遇を読まれた歌なのです、その当時の良寛の心持一つの定まった宗教にのみ偏するといふのではなかったらしい。
   ??宮岸     禅に入って禅を抜いてゐる人ですね。
   ??福田     円通寺は何時頃の建立ですか。
  大野氏      元禄二年に工を起こして{円通庵と称す(浅口郡誌)}同十六年に落成しました。開山は宝永六年二月七日(良高歿)で今から二百三、四十年前です。
   ??宮岸     玉島で良寛が修行されたといふことが最初に判ったのはどこからですか?
  石井氏      我々も実は少しもしりませんでした。丁度二十年も前に帝大から照会があり、良寛がここに来てをられたそうだが、何か残ってはゐないかと、とのことでしたが、そんなことは少しも知りませんので、判らぬ、と云って置きました。するとまた二三年後に早稲田大学からも書面を以て照会して来たのです。その後私は大内青巒居士に逢った時その話をして尋ねて見たがどうもハッキリしたことが判らない、その内東京の良寛会が良寛の供養をするから出て来いといふ招待があったので上京した時に相馬御風先生から贈られた「大愚良寛」といふ書物を見て初めてここにをられたことを知りました。
     ??宮岸   良寛の記念碑が建つやうになった径路はどういふ具合でしたか。
    石井氏    良寛を記念するために何かしなければならぬが、と色々考えてゐましたところ、丁度大正七年でしたが、当寺の境内拡張のため工事を起こしたのです。その時大きな石が出て来ました。しかもそれは国仙和尚時代に建てられた石書般若経塔の下の石でしたので、良寛を記念するために何か造りたいと思っていた矢先、良寛も書いたと云われる石書般若経の石が出たものですからこの大石を以て何とかしようぢやないかといふ事になったのですが、さうかうしてゐる内に財界は益々不況になりましてそれ以上仕事を続けることが出来なくなった、その当時京都の同志社にをられた大宮さんが当寺に来られて「何か良寛さんの残されたものはないか」との話でしたが、何もないと答えたところ、「それでは私が二、三本持ってゐるから寄贈します」と云って良寛の書いた手まり歌を一本下さったのです。その時にその石の話をしたところ「ここまでやって中止するのは残念だ、幸い東京に元医師をしてをられた田代亮介といふ人がいる、この人は大変良寛を研究してをられるから、田代さんに話して見ては」との話で早速紹介状を貰って田代先生を訪れ、色々と話をしましたところ、田代先生も非常に賛成して下さって種々御尽力くださった結果漸く出来上がったものです。
    藤田氏    国仙和尚時代が円通寺の最も盛んな時であり、和尚その人も非常に大徳であったと思はれます。そのために帰依するものが多かったと見えて、玉島でも指折りの豪家一
          軒が競って大きな寄付をしてゐます。その一つは円通寺の上り口にある銅の仏像であります、これは新町の西国屋萱谷半十郎の寄付したものであり、次の一つは上り口にあった経蔵です、これに一切経を入れて寄付したのですが、これは矢張り新町の喜多といふ人で屋号はコンダと云っていました、尤もいまは経蔵はありません、大野友松氏の寄付でそのアトへ四恩堂が建てられました、第三はこれも新町で東錦屋、中原理左衛門といふ人で、名前は兼暁と云っていました。この人は六百巻の般若経を一石に一字ずつ書いた石書般若経を収める塔を建てたのです。これは天明四年正月に建てたやうに書いてあります。だから今から百十九年前です。そして良寛は丁度二十七才の時でありました、その石書般若塔が傍らに松が生えた為に少し崩れまして、塔の中から経文を書いた石が出て来ましたので、これではならぬと、中原家十一代の中原甕氏に話したところ、中原氏は「私の先祖がそんなものを寄付したことは知らぬ」と云われたが最近石書般若  塔を見てその因縁が判り修理が出来ました。
                      座談会(二)終わり
         座談会(三)
         (六月二十三日掲載)
           童心を歌ふ
        ?万葉に入って万葉を出づ?
   花田一重氏   良寛は非常に優れた万葉張りの歌人であったが、玉島円通寺にをられた当時に於いて和歌の修業が出来たかどうかといふことは判りませんが、由来玉島は風流の地でありまして、そこに良寛が来たといふことは大変面白いと考えまして、少しその方面の話を致します。江戸時代後期の和歌では京都に於いて香川景樹が中心となってをり、その門には、熊谷直好、木下幸文等が出ると共に、井手曙覧、良寛、大隅言道等が出て短歌に於いて新しい機運が動いて来た時でありました。そして木下幸文は備中長尾の生まれ、今も堂山にその墓を存し、墓の傍らの春の花は春ごとに咲いて訪ふ人あれかしと待つが如くであります。この幸文が十三歳の時作った歌に、
           ひる見ればみみずに口はなかりけり、夜泣く声はあはれなりけり
           牛糞のとけて汚き川水に勿体なくも映る月影
          といふのがありますが、実に面白いではありませんか。又吉備郡穂井田には、万葉の歌風によって生気ある歌を作った平賀元義があった。又ズッと前には、澄月といふ歌人が玉島の圓乗院から出て平安和歌四天王の一人となってゐます。かういふ風に玉島周辺からは多くの歌人を見出すことが出来るのであります。かうした土地で良寛は 心をどこまでも持ち続けて、単なる万葉の模倣ではなくて自由の中に万葉の精神を体得したものであります。
   三宅富次郎氏  私は良寛をよく知るために、良寛のことを書いた本を広く読んで戴くように希望するものであります。私どもは良寛のことを書いた本を読んだ時、確かに何かを得ることが出来ると信じてゐます。先年相馬御風先生から利いた話でありますが、先生が埼玉県に講演に行かれた時のことですが、丁度同じ宿に選挙違反を取調べるため出張してゐた検事さんと泊り合はしたのです。ところがその検事さんが相馬先生に逢いたいと云ふので何事だろうと先生は不審に思われながらも検事に逢って見ると、その検事さん曰くに「私のやうな仕事をしてゐものは、どうしても人間的の気持ちが失われ易い、だから私はどんなに疲れていても毎日二十分なり三十分なり良寛のことを書いた書物を読んで人間的の気持ちを取り返してゐる」と云われたそうですが、私はこれを聞いて我が意を得たりといふ気持ちがしました。私自身歌を作る作らぬは別として例えば良寛の
            草の庵に足さしのべて小山田の
            山田の蛙聞くが楽しさ
          といったやうな歌を口ずさんでゐますと、本当に静かな、
      たまらない良い気持ちになって来ます
中村只一   玉島の本屋へ行きましても良寛の本はいつも切れてゐま
す。私は良寛について別に研究はしてゐませんが、良寛は万葉を深く研究し万葉の根本を会得してゐる人であったが、歌の内容は、所謂童心を基礎としてゐるのであります。濁りのない生一本な無邪気な心を以って自己を眺め、自然を眺め、それを表すには万葉の精神を以てやってをられたのであります。即ち万葉に悟入して更に自己の境地を開いてゐると思います。
小野林太郎氏  少し自己宣伝のやうですが、私の家は旧家でありますので、良寛は度々私の家に盆や彼岸等に来られたものです。が別に何も記録がないところを見ると玉島から越後へ帰られたのち偉くなったのではあるまいか。
中塚一郎氏   玉島は古くから越後とは交通頻繁でありまして、出雲の美保の関から下関を廻って玉島に来てゐました。だから越後と玉島は仲々因縁の深いところでありまして、良寛だけがワザワザ船に乗って、ここまでやって来られたのではなくて、かく彼我の交通が頻繁であったので、国仙和尚が説教に行かれた時その大徳を慕ってこちらについて来られたのです。
??宮岸     良寛記念碑の除幕式を機会にいままでそれに関係のあった人々のみでなくて全玉島の人々が良寛と円通寺の顕掲に協力しなければならぬと思ひますその点多少欠けたところはありませんか。玉島が良寛を利用する・・・といへば少し変に聞こえますが大に名勝地として施設、宣伝に力を入れたらどうです。
吉川芳一郎氏   そうしなければいけないのですが、今まで良寛がをられたことすら知らなかったのですから、これから後大いにやりたいと思ってゐます。
??宮岸     この寺に上がる通路なども、青年団等で、少し積極的に動いてやれば、何とかなると思ひますが。
吉川氏     その点も考えてゐます。兎に角総ては今後の施設にまつより外仕方がないと思ひます。
??宮岸     除幕式には故亀山松濤君が生前骨を折った、良寛踊をやるようにして欲しい。
中塚氏     私は本日の出席者一同に代わりかうした機会を作って下さった中国民報社に深く感謝の意を表します。
??宮岸     ではこれで散会しますいろいろありがたうございました(完)
       

http://yahoo.jp/box/5jDKu9



[23] (無題)

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年11月11日(土)16時53分54秒 dhcp255-72.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

出雲崎良寛書画展第1日目
・ホンダラバーガーと白雪糕買いました。
・良寛さん真筆コーナーには多くの良寛ファンが訪れ、出雲埼良寛記念館本間館長の説明を熱心に聞いていました。
・あと明日1日あります。~3時PMまでです。

http://yahoo.jp/box/5jDKu9



[22] 「出雲崎良寛書画展」

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年11月10日(金)22時52分6秒 dhcp255-72.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

「出雲崎良寛書画展」

http://yahoo.jp/box/5jDKu9



[21] 良寛会館(玉島)オープン記念イベント

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年 4月29日(土)19時09分58秒 dhcp179-245.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

4月29日
良寛会館(玉島)のオープン記念イベントが終わりました。
・出雲崎良寛記念館・本間館長の記念講演
・コーラス 玉島少年少女合唱団
・バンド演奏
・良寛遺墨解説
・おけさ・良寛林・良寛音頭
と盛り上がりました。

http://yahoo.jp/box/5jDKu9



[20] Re: 人間是非一夢中

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年 3月23日(木)09時08分15秒 dhcp247-73.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

> > ・良寛会館・円通寺・玉島の町のご案内は
> > ・NPO法人備中玉島観光ガイド協会へどうぞ
> > ・ホームページです→こちらからお申し込みください。
> > http://npogide1195.tonosama.jp/
> >
> >
> >
> >
> >

http://yahoo.jp/box/5jDKu9



[19] Re: 人間是非一夢中

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年 3月23日(木)09時07分14秒 dhcp247-73.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用 > No.18[元記事へ]

> ・良寛会館・円通寺・玉島の町のご案内は
> ・NPO法人備中玉島観光ガイド協会へどうぞ
> ・ホームページです→こちらからお申し込みください。
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[18] 人間是非一夢中

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年 3月12日(日)23時50分41秒 dhcp255-231.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用

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[17] 野渡無人船自横

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年 3月11日(土)22時51分41秒 dhcp255-231.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

野渡について辞書で調べました。
三省堂 大辞林
【野渡】
野中にある川の渡し場。田舎の渡し。 「堤に柳ありて直曲なる処,-のせばき処/伊沢蘭軒 ?外」

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