江戸時代から備中玉島円通寺の見どころに石庭があります。自然石が連なり、池やつつじ、杜若の花々など素晴らしい風景に見とれます。
私たちがお客様をご案内の時には、石のカメを探してもらいます。3匹のカメを見つけるとよいことがあるそうです。また正面には、良寛さんが生まれたのと同じ年に建立された、倉敷市重要文化財「青銅露座地蔵」があります。
良寛さんが石庭の池を漢詩に読んでいます。
風雪七度送年光
蓮漏水枯半凋傷
此日有誰憐酔客
拝來憶旧金仙牀
7年の歳月が過ぎ去ったが、なじみの水時計が涸れ、
半ば傷み荒れている。この日、殿上で禁酒のお札を見たが
酔客に同情するものはいないと見える。本尊を拝んでから、こんな
札のなかった以前の寺の禅床が懐かしく思い出される
備中玉島円通寺のガイドは、NPO法人備中玉島観光ガイド協会にご相談ください。
hirokun1195@gmail.com
良寛椿・覚樹庵・竹林
円通寺時代の後期、良寛が諸国行脚にでては帰山していたころに
住んでいたのは蓮池の上にその礎石の残っている覚樹庵であったという
この覚樹庵は明治の末取り払われて、その跡には今、八重小輪の椿の古木が高く
そびえている。良寛が朝夕この椿を愛でたという意味をこめて、良寛椿となずけられた。
椿の種類は「見驚」
・良寛歌碑(赤松月船筆)昭和56年歌碑
形見とて何かのこさむ春は花 夏はほととぎす 秋はもみじば
洞松寺赤松月船和尚筆
県下第二位名勝地
弁天池の傍らにこの碑が建っている。現在の円通寺に係わる大切な記念碑である。
中国民報社の主催で、昭和四年十一月のことである。(『山陽新聞七十五年史』)
四年九月、中国民報社は後楽園を除く十二勝以下、二百余の遊覧地を投票によって選
んだ。投票は三四四万九千十一票に及んだ。(十一月五日締め切り)
1.鬼ヶ岳(497,822) 2.円通寺公園(262,060)
3.阿哲峡(223,565) 4.牛窓公園(216,299)
5.箆取神社海岸 6.香登臥龍松 7.芳井天神峡 8.西大寺観音院
9.高松公園 10.酒津水門 11.王子ヶ岳 12.奥津温泉
昭和四年は、山陽新報社の創立五十周年にあたり、当時は新聞社による各種の催し物
が競争されていたので、中国民報社によるこの催し物もその一つではないかと思われる。
これが後の「瀬戸内海国立公園」指定(S.9年3月)に繋がるのである。
ほかに「大典記念岡山県十傑」投票とか「県下一周ボールの旅」なども昭和四年前後
にかけて行われた。
ついで山陽新報社は「岡山県下十勝十五景」の投票(10年9月~11月6日)を行
い一億二千万票を集めた。一位鹿久居島一千万票であり、なお二十秀を追加した。
これは山陽新報社が以前企画した「御大典記念岡山県十傑投票」(三年)と同じ形式で
投票をおこなったものである。
ちなみに「鬼ノ城」は十五景の二位、「円通寺」は十五景の九位に選ばれている。
なお「鬼ノ城」には、「岡山県十五景地」と書かれた銅板が昭和十二年四月が鬼之城優
勝会によって建てられている。
郷土史家・大月先生談
大方広仏華厳経 「花で飾られた広大な教え」
山門を潜り弁天池を過ぎて石段にかかるあたりに、(名勝地円通寺中国地方第二位の
碑がある。付近には古びた灯籠や石組みも残っているのが目にとまる。)
(その中で一基の石柱に大方広仏華厳経と書かれたのが印象的で、思わず足をとめる。
年月日も寄進者の名前もない、なにも手掛かりもないので余計に気を引かれる。)
碑の文字は篆字で、正面は「大方広仏華厳経」と経名、左側面「三唱因縁難思議」
裏面「曽向滄溟下浮木」、最後の右側面「夜濤相共接盲龜」と書かれています。
読み下せば「大方仏を広む華厳経 三唱すれば因縁思議し難し 曾って滄溟(そうめい)に向か
って浮木を下す 夜濤(よるとう)相共に盲龜に接す」(「玉島の景観と文化」昭和五十二年)と
なるようです。
※ 「盲龜と浮木」の例えは、「涅槃経」、「梵網経」、「阿含経」、「雲門録」等々
引用される例は多い。
さらに石書般若経塔に「般若波羅密 能消長夜昏 盲亀値浮木 誰不拝朝暾」(般
若波羅密は 能く長夜の昏を消し 盲亀の浮木に値ふ 誰か朝暾を拝せざらん)の語
が国仙和尚によって書かれている。
> ところで、碑の形、文字の古さ、文面の内容などからこれは開祖徳翁良高師が書か
れたものではないかと云う疑問が以前からあった。
○ たまたま『徳翁高禅師語録』のなかに「五濁海中一眼の龜漂流して浮木実に逢うこ
と希なり唯称す弥陀生極楽夜濤相接して共に帰を同す」(念仏其二)、「跛龜盲龜」
(其三)などの語もあり、開祖良高師が円通寺開山に当たって、自分の布教に対する
願いを表したものとみて差し支えないのではなかろうと思われた。
> 『華厳経』には「信は道の元、功徳の母と為す」と、「信」は重要な位置が与えら
れている、人間にとって「信」はすべてのかかわりに於いてすべてを決定していく前
提である。大乗寺内部の同門から徳翁に対する感情的、思想的、派閥的な理由をもっ
て、徳翁を大乗寺から追放する動きがあった。そうした徳翁の歩いてきた道程を暗示
するものではないだろうか。そうなれば山門の「不許葷酒入境内」の石碑と一対とな
るわけである。長い間の疑問が氷解したわけである。
○信心は発し難いものであり、さかのぼって、正しい教えを聴く機会に恵まれること
はさらに難しいものである、これは新しく寺を開山するに際しての表明ではないか。
>『華厳経』には「信は仏道に入る第一歩である」と書かれており、信じることは、
仏道の元となり、その人の功徳の母となるとも説かれている。
冠木門形式の山門です。
25世徳応戒全代 施主 三宅喜七郎 栄谷利一 裏の左側石門に刻
大正7年11月建立 施主 太田幾次郎 香西鐵次郎 右側 石門に刻
石工 故脇坂清太郎 弟子 原友吉 西井宗八
原友吉はのち原拝石と名前を変え、柚木玉邨、徳応戒全のもとで良寛詩碑など圓通寺に多くの石碑を彫っています。
山門前にある良寛さん詩碑です。
乞食入市廛 道逢旧識翁 問我師胡為 住彼白雲峰
我道子胡為 占此紅塵中 欲答両不答 夢破五更鐘
食を乞うて市廛に入り 道に旧識の翁に逢う 我に問う「師なんすれぞ 彼の白雲峰に住むやと」
我は言う「子 なんすれぞ この紅塵の中を占むるやと」 答えんと欲すれど両ながら答えず 夢は破る 五更の鐘
・良寛様没後170年記念行事建立 文化協会 良寛遺墨(文化協会ニュースno.7)
五合庵時代の作(1805-1816) 五更 午前3時~5時頃
圓通寺所蔵
・良寛さんが歩いていると、お年寄りが「良寛さんなんであのような山の中に暮らすのですか」と問います。
良寛さんは「あなたは何故このようなごみごみしたところに住むのですか」と答えます。
二人が何も答えません。 五更の鐘で目が覚めました。 夢だったのですね。
元禄11年、圓通寺開山徳翁良高和尚
加賀の国金沢の大乗寺の住職を退いた高僧徳翁良高和尚が当地の明崎久々井)の韜光庵に滞留していたので、柏島海徳寺一桂活道、西江原永祥寺竿頭円刹、鴨方長谷寺独秀X雄和尚等の協力を得、庄屋の西山源右衛門をはじめとする村民117名は連判状を手に社寺奉行に誓願して堂宇を再建すると共に、良高和尚を開山として迎え、元禄11年(1698)補陀洛山円通庵が開創された。
・私たちがガイドするのに、この石碑前でお酒を飲んでいる人がいないかお聞きします。お酒を飲んでいる方は山門から入らないよう別の道を通ってもらいます。
良寛辞世の句と貞心尼
山門横にある辞世の句です。
辞世の句と貞心尼
良寛さん70歳、貞心尼30歳、2人は和歌で交流を始めます。天保元年夏から良寛さんの病状は悪化する。良寛様は貞心尼に次のように呼びかける。
あずさゆみ はるになりなば くさのいほを とく出て来ませ あいたきものを
貞心尼はすぐさま看病にかけつける。12月ごろにはますます病状は悪化する。
貞心尼は、次のように詠む
いきしにの さかいはなれてすむみにも さらぬ別れのあるぞかなしき
それに対し良寛さまは、辞世の句となった、次の1句を詠む
うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ
天保2年正月6日 74歳 示寂
良寛さんと貞心尼の交友はあまりにも有名ですが、貞心尼が書いた良寛さんについての作品(はちすの露)が良寛さんのことを知る大きな*「資料」*・になっています。
写真 辞世の句 貞心尼墓 墓のある東雲寺
備中玉島円通寺のガイドは、圓通寺駐車場からはじまります。
・駐車場は広く玉島の町が一望できます。
・羽黒神社を中心とした街並み
・今から835年くらい前の源平水島合戦の古戦場も見えます。
この戦いは平家が勝ち、戦いの最中に日食が起こりました。日食の詳細は下記で
http://6921.teacup.com/ryoukan_tamasima/bbs/28
・少し進むと、潮見門があります。毎年お正月にはこちらで初日を遥拝します。簡素な冠木門形式で、お正月にはこの向こうに太陽が出ます。
・ここから備中玉島円通寺のガイドがスタートします。