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[28] 源平水島合戦日食

投稿者: 西 廣行 投稿日:2017年12月11日(月)23時57分22秒 dhcp248-184.tamatele.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

源平水島合戦を調べていると、日食について倉敷天文台台長、本田實先生の*「資料」*・が出てきました。


源平合戦の日食について
           本田 實

    数年前のある日、下津井にて地方史を研究されている角田直一さんからお話をきく機会が
   あった 。その日はある集会が、倉敷地方にかかわる地方史をうかがう会であっつて、その
   講演が終わったあと、角田さんと雑談を交わしているときであった。
    「何と本田さん、もう八○○年にもなるのですが、源平合戦の昔、この倉敷地方が戦場になったことがあるのですが、その折日食があったと云う記録があるのですが?」
   と話し出された。
    日食となると天文の畑のことだし、どんな日食があったのですかと尋ねると、
    「寿永二年閏十月一日の午ごろらしいのですが、空が真黒くなるような、つまり皆既日食があって、平家の軍勢は都に天文方があって、この日の日食を知っていたが、源氏の方はこの日食のことは何も知らなかったものですから、この天変地異に驚いて、敗退していったと、 いうのですよ」
    「そうですか、それではそれを調べてみましょうか」
    「是非調べてみて下さい」
   とその日は分かれた。
    さてそれではまづ「源平盛衰記」を読んでみることにした。巻三三、水島での源平合戦の記録である。
     寿永二年閏十月一日(一一八三年十一月十七日)、水島にて源氏と平家と合戦を企つ、城の中より勝ち鼓をうってののしりかかるほどに、天俄に曇りて、日の光も見えず、闇の夜のごとくなりたれば、源氏の軍兵ども日食とは知らず、いとど東西を失いて、船を退いていちずともなく風にしたがいてのがれゆく。平氏の兵どもはかねて知りたれば、いよいよ鬨をつくりて、重ねて攻め戦う。・・・。
     なるほどこれだな?と思った。
     一二世紀の源平争乱の末に、平家は天皇と神器を奉じて西海へのがれ、その途中一時備中の水島に立てこもった。そこを源氏は水陸から攻めたのである。折も折、突如として日食がおきたのである。
     さてどう調べるかである。
     そもそも日食や月食は、日、月、地球の三つの天体の関係位置によって起こる現象ですから、太陽や月の運動が正しく分かっていないと精密に予報することができないがさてどうするか。
     月が地球と太陽の間に入って、太陽を隠すと日食ですが、これは朔のときでないとおこらない、月の軌道は地球が公転する軌道を五度ほど傾いているので、太陽、月、地球が一直線になって日食がおこることはそう度々はない。
     そのうちで地球と月の距離が近くて月が大きく見えて太陽がすっぽりかくれて太陽を全くみることができない場合を皆既日食といいますし、地球から月までの距離が遠くて月が小さく見えて、太陽を全部かくしきれなくて黒い月のまわりに太陽の輝いた部分が輪になって残ってみえる場合を金環食といいます。
     さて太陽がまわる黄道と、月の軌道の白道とが交わる交点から出発してふたたびこの点に帰ってくるまでの日数は、この交点が動かなければ一恒星年と同じはずですが、じつはこの交点は約十九年で黄道を逆行していますから太陽はその点に三四六・六二日で帰ってくる。
     日食がおこるためには月と太陽がこの交点の近くにいることが必要であり、したがって 三四六・六二日というのは日食をくり返す一つの周期でこれを「食年」とよんでいる。
     日食がおこるための条件は、月が黄道と白道の交点ちかくにあって、しかもそこで「朔」になるということが必要になります。
     少し説明をはぶきますが、地球上におこる日食は、六五八五日、いいかえれば、十八年と十一日、または十日(閏年が十八年の間に五回あるときは十日、四回の時には十一日)たつとくりかえしておこることになります。
     六五八五・三二日の長さをサロスの週期とよんでいます。
     サロスの週期は六五八五日と〇、三二日つまり七時間四十二分だけ、十八年と十日または十一日よりおくれておこることになりますから、日食は経度で八時間ほど西にづれますから、同じ場所で見えないで地球上を西にづれていきます。
     さて寿永二年の日食をこのサロスの週期から導きだすことはできるでしょうか。私は書物で調べるという方法と計算に詳しい人にたづねるというずるい方法をとりました。
     計算に強い人では、奈良市に在住の友人で軌道計算の大家、長谷川一郎博士がおられます。先ずこの方に寿永二年の日食の時刻が分からないでしょうかとたづねました。博士からは、近くシベリヤ旅行に出かけるから、帰りましたら調べましょうと返事をいただいた。やがてシベリヤ旅行を終えられた博士から次のようなおたよりをいただいた。
          前略
         サテ一一八三年十一月十七日ノ水島ノ日食デスガ、渡辺敏夫先生の日食月宝典
       ニヨリマスト 計算例トシテ次ノヨウナ結果ガ示サレテイマシタ
            水島地方時(太陽南中ヲ十二時〇〇分トスル)
           (コノ日水島デノ太陽南中ハ十一時五十分日本標準時)
       食ノ始 十時〇八分
       食甚  十一時四十五分
       食ノ終 十三時二十九分
        (食分九十五% 但シ金環食)
       金環食の北限界線ハ次ノ点ヲ通リマス
       東経一三三度三十分北緯三四度四九分
       東経一三三度四十五分北緯三四度三十七分ヲオ送リイタダイタ地図ニ エンピツ
       デ北限界線ヲ記入シテオキマシタ
       水島ハ殆ドコノ北限界線ニ近イノデ金環食ガ見ラレタノハ、僅カ、数秒間ノコトト
       思ヒマス、シカシ、太陽ノ直径ノ九十五%ガ月ニ覆ワレテイタ時間(金環食ノ前後
       ヲ含メテ)ハカナリ(数分間)アッタト思ワレマス 食甚ノトキハ太陽の形ハホボ
       図ノヨウデ アッタト思ワレマス。
       月ガ太陽面ノ下ノ部分ヲ カクスヨウ二通リスギテ行ッタコト二ナリマス デス
         カラ 太陽ガマッ暗二ナッタトハ思エマセンガヤヤ薄暗クナッタコトデショ
         ウ
          源平盛衰記ノ記事ノ「闇ノ夜ノ如ク」ハ少シオーバーカト思イマス。
          マタ「源氏の軍兵共日食とは不知」トアルノハ 当時ノ詳シイ暦ヲ持ッテイ
         ナカッタ タメカト思イマス
          平家ハ京都ノ朝廷側ニイタワケデスカラ 陰陽博士ガ作ッタ詳シイ暦ヲ持
         ッテイテ 日食ガ起ルコトヲ 承知シテイタノデショウ
          モット早ク ゴ返事スベキデアッタト思イマス 渡辺先生ノ宝典ヲヨク調
         べテオレバ 旅行ニ出カケル前ニ ゴ返事出来タト思イマス
                               取急ギ
                                長谷川 一郎

    この手紙を受取ってすぐ角田さんのところへ五万分の一の地図を送って、平家と源氏の布
   陣の位置を記入していただいた。遠く八百年の昔は、いまの水島、玉島の現在からは想像も
   出来ないような、たたずまいであったろうが、ここで刻々に欠けてゆく太陽の下で両軍の修
   羅がくり拡げられていたのであろう。
    角田さんに記入していただいた地図を長谷川博士にお送りして記入したのが、酒津黒田の
   入口のところの新幹線の鉄橋の中央を通って、総社市岡田を通る線が、この金環食の北の限
   界線でこれより北は金環食にならないで部分食となり、この線より南が金環食帯でもちろん、
   戦場である。水島及び水島灘、玉島湾は九十五%の金環食になったのであった。
    ここに長谷川氏からの日食の時刻をあらためて記しておきましょう。
         寿永二年閏十月一日
           一一八三年十一月十七日
          日食かけ始め  十時八分
          一番かけた時食甚十一時四十五分
          日食の終わり  十三時二十九分
    この日水島では太陽は真南に十一時五十分にくる(日本標準時)
    今玉島大橋の東岸に立っても、西岸に立っても、遠く八百年昔の源氏や平家の勇者共の姿
   を偲ぶにはあまりにもの変わりようであるが、日食のあった時期、晩秋十一月の中旬になる
   と、粛々と吹く海からの風だけは八百年の昔の音に鳴ることであろう。
                              (倉敷天文台長)



              参考文献
                 渡辺敏夫著 日食月食宝典
                 斎藤國治著 星の古記録
                 理学博士 長谷川一郎助言




  寿永二年閏十月一日、t玉島から船尾にかけての沖合で行われた源平水島合戦にまつわる伝承として、昭和四十八年四月一日、船穂町重要文化財に指定された平石山雞徳寺の竜灯木の言い伝えがある。
  平知盛を総大将に千余艘をもって木曽源氏軍の五百余艘を迎え撃った平家は、富士川、北陸の倶利伽羅峠いらいの相つぐ敗戦の汚名をそそがんと、全軍が楯を立て、弓矢を置き、赤旗を舳先にひるがえし「神仏もご加護あれ」と天に祈った。その心意気、神に通じてか、はるか南の沖合から竜灯がのぼり、東北の方へゆるやかに流れていった。これを見た平家一族は「神仏もご照覧あった。きょうの戦いは勝ち戦ぞ」と船ばたをたたき、赤旗を打ち振って奮い立った。竜灯は、やがて船穂平石山の雞徳寺境内の円柏(いぶき)の木にとどまり、しばらくは光を放っていたと伝えられる。
  寺伝によると、雞徳寺は、平安時代の初め桓武天皇の大同二年(八〇七)、弘法大師(空海)によって開基されたといわれるが、大同二年というのは、弘法大師が唐(中国)から帰国して真言宗を伝えた翌年であるから、少し早すぎるかと思われる。いずれにせよ、古く創建せられた由緒ある寺である。
  源平水島合戦にまつわる竜灯木と呼ばれる円柏の木は、天武天皇(六七二~六八六)お手植えの木とも伝えられる。天武天皇は即位までは大海人(おおあま)皇子といい、壬申(じんしん)の乱(六七二)で甥の大友(おおとも)皇子を滅ぼし皇位を継承した天皇であるが、当時、吉備の国の長官・広嶋は大海人皇子(天武天皇)に味方して恩賞を得ているので、雞徳寺の円柏の木(竜灯木)の天武天皇お手植えの伝承は、こうした史実から生まれたのかも知れない。また、源平水島合戦で竜灯が揚がった伝承は、寿永二年閏十月一日が、たまたま皆既日食の日であったため、戦いが始まって間もなく、海上は真っ暗となった。日食という天文現象を知らなかった北陸の田舎武士集団の木曽源氏軍は余計に恐れ、
 おののいた。一方、平家方は暗闇の空を流れる竜灯に勇気づけられたのであろうが、平清盛によって宋(中国)との貿易を開いていた平家は、新しい天文学も学び、この日の皆既日食を事前に知っていたのではなかろうかともいわれている。

http://yahoo.jp/box/5jDKu9


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